「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える 山下 良道 著 (集英社)
今回は最近よく聞くようになった「マインドフルネス」と仏教「禅(座禅)」についての本になります
マインドフルネスとは
静かな環境で、「今、ここ」を集中して感じる訓練
呼吸、吸っている、履いている自分をあるがままに判断せずに観察をする
雑念が沸いたら、雑念を認め、それにこだわらずすぐ手放す。
そして再び「今、ここ」の私をかんじることに戻る
というものです。
禅について
もともと禅とは、禅那を略したものであり、禅定のことです。
禅定とは、私たちの普段の心の動きが止まることで、何か新しいものが現れた状態を言います。
日本に置ける「禅」は、日常の一見価値のなさそうな些細なことでも丁寧に最新の注意で行うことで、何かそれまで体験しなかった真の世界に自ら触れることができる。
その感覚は多くの人々が持っています。
それこそが日本社会の中に染み込んでいる「禅」などだということのようです。
マインドフルネスが目指すもの
人はみな心の映画を見ている事実が、私たちを不幸にしている最大の理由であり、
心の映画は常にネガティブなものである。
人間の悩み、苦しみはまさにそこにある
そういったものを捨て去るのではなく、その映画の世界そのものから出て行くこと
その時、初めて評価、好き嫌い、とらわれから抜けて、私を含む世界を客観的に見ることができる
とらわれでできた映画の世界を生きていることを自覚した上でその映画の世界の外に出ること
それがマインドフルネスの目的だということ
私たちの苦しみに終止符を打つためのカギになる
マインドフルネス×禅
マインドフルネスと禅は別のもので、二つは全く違う歴史的文脈で発展してきたのです。
座禅とは、「思いの手放し百千万発」、座禅をしている人の内面にひっきりなしに沸き起こってくるのが、
「思い=thinkingマインド」の雲ですが、ひとたび座ったらば百万回だろうと千万回だろうとひたすらそれを手放すことを続けるのだ。ということです。
つまり、自分の心に起きているのは、脳内映画(仮想)だと気づき、その中に飲み込まれるのではなく、映画制作に繋がる思いを
「捨て続ける」のが、禅のオーソドックスなあり方だということのようです。
対して、マインドフルネス瞑想では、思いを単に手放すだけではなく、思いをある対象へ向かわせます。
対象はなんでもいいのですが、代表的なのは
「呼吸」
です。
この瞬間の自らの呼吸(吸う息、吐く息)に静かに集中して見つめます。
完全に集中し、「呼吸」にフォーカスすることができれば、
脳内映画は自動的に止んだ状態となります。
知らないうちに「思い」の手放しに成功するのが、マインドフルネス瞑想と言えるのかもしれません。
「私」とは二重構造をしている
生まれて、年を取って、病気になって、死んでいく「私」
生まれることも、死ぬこともない「私」
ひとつめの私は、thinkingマインドとこの肉体です。
ふたつめの私は、thinkingマインドと、この肉体を観ている私
ふたつめの私とは、マインドフルネスによって認識をできる。
お釈迦様と道元禅師の遺言
不忘年。念を忘れるな。
マインドフルネスを忘れるな。いつもマインドフルでいなさい
これを言い換えると
いつも「生まれることも、死ぬこともない私」でいなさい
ということです。
おわりに
生まれることも、死ぬこともない自分に気づくという内容が本書の伝えたい内容なのでしょうか・・・
自分というものは二重構造である。
もうひとりの「私」を客観視するための方法がマインドフルネスなのだという点は理解できました。
一般的なビジネス書と違い意識の部分や無意識・実在して見えるものではないメンタル的な部分の内容なので私自身も理解が追いつきません・・・
もっと他のメンタリティや意識・無意識に関しての書籍を読み理解度を深めたいです。
完全にメモになってしまっている・・・
以上、お読みいただきましてありがとうございました。
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